昭和五十一年七月二十六日  朝の御理解


御理解第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」


 御理解第五節にもそういうところがございますね。これまで神がものを言うて聞かせることはあるまい。何処へ参っても、片便で願い捨てであろうが。といったような表現で言われてますね。何処へ参っても片便の願い捨て。ただ一生懸命拝んで、どうぞどうぞとお願いをしてくるだけ。それが今まで金光教祖ご出現以前の日本人の宗教というのはそういうものであった。片便の願い捨てであった。それでもやはり一心をたてると我が心に神がござるから、おかげになるのじゃと。 ね、やはり奇跡的なおかげも片便の願い捨てでも受けた。それでも片便の願い捨てではおかげは受けても、此片が祈るところ天地金乃神と一心なりと御理解五節の最後のところにございますね。そういう天地と一つになれれるようなお徳は頂かれんのです。そこで今日の御理解であります、今までは片便の願い捨てであった。けれども、教祖様も始めの間は此片は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれと。たずねる所がなかった、金光様の御信心はたずねる所がある。しかも片便の願い捨てではない。お参りをする、お願いをする、いうならばお取り次ぎを願うと、お取り次ぎを頂いて帰らんならんようにそういう仕組みになっています、金光様の御信心は。
 ね、お取り次ぎを頂いてお願いをするだけじゃでけん。お願いをしたらお取り次ぎを頂いて頂いて帰らなければいけない。どういう心掛けになったらおかげ頂けるか。どういう心掛けになったらお徳が受けられるか。どういう信心をさせて頂きゃあ身しのぎができるようなおかげを受けられるかということでございます。ね、だから教えを頂いても実行しなかったらね、いうなら片便の願い捨てと同じことでございますから、いつまでたっても此片が祈るところ天地金乃神と一心なりというような素晴らしい信心の境地は開けてまいりません。
 昨日、二十五日の研修でしたが波多野さんと戎浦さんのお届けがございました。波多野さんはお届けですからそこは私が話しました。それから戎浦さんは自分で体験を話しておりました。本当に何事にも信心になるということ。ね、先日から一時の御祈念の時に私ちょうど朝の御祈念の後に電話がかかってきた。というのは有り難とうして有り難とうしてそのたまらん心をお礼を申されるのであった。ある病院に務めておられるわけです。ところがその病院の院長夫妻というのが大変な人使いが荒いというか、もうとにかくよい人じゃないらしいです。だからもう看護婦でもそこにお務めになっとる女中さんでももういつも代わってる。
 そして看護婦達が集まると、院長と院長婦人の悪口ばっかりを言うておる。もう自分も本当にそういう中に働かせて頂くようになってから、もう不愉快で不愉快でたまらんのだけれどもようと考えた。ここの病院に務めさせて頂く時に二件から是非来てくれと言われた。けれども自分のいうならば好きな病院であったからもう普通でいうならばそちらの方へ行くのですけれどもお伺いをしてからと思うて、お伺いをさせて頂いたら親先生が自分のあんまり知らない方の病院に行けとこう言われる。
  そしてやらせて頂いたところがそういうようにあんまり良い病院ではなかったとこう言うのである。しかも看護婦だけ集まって院長の悪口を言い合うような、そして次の働き口を見つけよう、ここじゃとてもいかんといったような話しばかりである。けれども考えられたんですね。親先生がこの病院に行けと言われたんだから、これは私のいうならば私でなからなければできん御用があるに違いがない、ね。そこから思いが変わって来た。よし、今日からは一つ院長先生の言われることを奥さんの言われることを親先生が言われることだと思うて頂こうと思うて三日間過ぎた。
 おかげを頂いて明くる日は、ね、今日はどう言うふうなことを言われるじゃろうか、どういうふうな仕打ちをされるだろうかと思うたら楽しゅうなってきた。ね、あれは信心生活、何という御理解でしたかね、あの塗板に書きましたがその通りのことですね。一時の信行の時の。いわば信心をさせて頂く者の姿勢というものなんです、ね。親先生がこの病院に行けと言われた、けどそれだけではなくてそんなら自分にしかできない御用があるに違いないと思うた。そこでなら、どういう不愉快なことが起こって来ても、どういう風に言われてもされてもです、それを親先生が言われるんだ、親先生がされておるんだという見方ができたらもう三日目、四日目からはそれが楽しゅうなってきた。今日は神様はどげなん修行をさせて下さるだろうかというわけなんです。
 私信心とはそれだと思う。いわゆる片便の願い捨てであったらどこどこに務めますというだけであっただろう、ところが戎浦さんの場合、ね、神様にお取り次ぎを頂いて、お願いをしてそれを頂いて帰るというところから、なら○○病院に決心された。そしてそこからいうならば信心の姿勢が出来、いうなら楽しい信心の生活が出来るようにならせて頂いた。
 昨日それから先の話しをされておりました。もうそんな風でとにかく又あの先生の顔を見らにゃんならん、またあの先生の声を聞かにゃんならんと思うた時にはとにかく不愉快であったけれども、楽しゅうなってきた、それが帰ってからまでも続いておるというのです。あちら福岡におられるけれども、中々お野菜作りの名人ですから、少しばかりのところにいろんなジャガイモとか大根とか作ってあります。もう見事にできるんです。もうお百姓さんでも出来んごと立派なものができるです。もう祈りに祈り、願いに願っていわゆる一心に作られるから。
 その日も病院から帰らして頂いて、今日は主人のとにかく遅くなるというて出ておられますから夕ごはんの用意なんかも慌ててせんでいいから、夕方から畑の中の草取りを始めた。もうただ有り難い一念である。やっぱり隣の方の向こうの奥さんも草取りをしよんなさる。そしてからもう戎浦さん、とにかく蚊のおってからもうどんこんできまっせんのと言われて気が付いた。確かにブンブン言いよるばってん自分には全然一匹の蚊もよりつかなかったという体験を話しておられました。
 これと同じことを昨日、波多野さんもお届けしておられました。ね、家の周囲の雑草をとりながらです、それこそ自分の心の中の雑草に取り組んでおりるような気持ちで御用させて頂いた。やっぱりそこでも隣の方でも外で蚊がくいましょう、とこう言われる。ところが蚊がくわんでおるのに気が付いて本当に神様のお働きというものは素晴らしいことだ、いうならば此方が祈るところ天地金乃神と一心なりというようなもう天地と交流しておる。ね、もう蚊と交流しておる。もうその人には蚊が止まらん、刺さんのだというような体験を昨日二つお届けさせて頂きましたがね。
 いうなら信心生活というものがです、ただここでお参りをしておるとかお話しを頂いておるというだけではなくて、それをもって帰って行の上に現す時にです、どういう難儀な問題であっても楽しゅうなってくる。有り難とうなってくる。そしてそこから生まれて来る体験は、信心のない者に言うても本当と思われんような体験が生まれてくる。ね、天地が自由になるということ天地のリズムを蚊一匹の上にでも神様が自由自在になさる。天地の親神様がおそらく今ここに波多野京子という人が草を取りよるけれども、有り難い有り難いしよるけんおまえ刺しどもするなと神様が蚊に言いよんなさるとじゃろう。ね、それは不思議な働きがそこから生まれてくるです。
 私は今日、御神前にやらせて頂いたら、歌舞伎芝居の場面というよりも、ある奇麗な女形の方が花道を降りて行くところを頂いた。後ろ姿。それで花道の向こうに幕がありますよね、その幕の中に入ったらそれこそ長い着物を着ているのを尻にひっからげてから楽屋の方にどんどん走っていくところを頂いた。勿論男の人女形ですから。舞台ではもう水もしたたるようないうならばお姫様ならお姫様の役をしておられる。もう幕が降りて向こうに方へ行ったらもう尻ひっからげちから楽屋の方さん走っていきよる。というそういう場面を頂いて、私は思わせて頂いた。ははあ、信心もこれではいけないなということです。
 教会ではお話しを頂いて成る程そうだと頂いたら、もう教会の門を出ると自分にかえってしまっておる、元の自分にかえっておるということでは、ね、方便の願い捨てと同じことでありせっかく聞いて帰ったものが徳にもおかげにもならんということでございます。
 昔、岩井半四郎という女形の名優がおりました。今でもそうですね、あの歌右衛門さんなんかはもうやっぱ私生活が女と同じ生活をされる。舞台に出た時だけではない。ところが中途半端な女形はそれこそ演技の上では女形ですから女形を女を務めておりますけれども、幕下りた向こうの方では尻ひっからげちから楽屋さん行くというようなことではいわゆる名女形とは言えないです。形だけではいかん、心がやはり女になりきっとかなきゃいけん。その為には男ですから、女になるというところの精進が常日頃出来とかなきゃいけないというのです。
 絶対半四郎という人は男便所に行かないそうです。ね、心掛けなんです、女形の。自分の相手役の人が丁度便所にきあわせた、そしたら立ってから小便どんしよったらもう相手役の人が興ざめするでしょう。ね、だから必ず女便所とそういう例は、そういうあやめ草かなんかという女形の秘訣を書いた本に出ております。 ね、だから信心をさせて頂く者もそうです。もう常日頃の心掛けが大事です。
 昨日、研修会でたまたま初めから昨日は何というか、口上ばっかりんごたる話でした、私は。というのは高橋さんが朝のお食事の時にたまたま月次祭の話が出た。そしてお祭りが始まって、神饌やら始まるとこちらの方でそれこそガヤガヤガヤガヤ色んな話が始まる。しかも熱心な信者さん達の中にそれが多い、どうしたことだろうかと。お祭りというものは先生たちが仕えよんなさるとじゃない、それこそ月次祭というのは、ね、月次祭から月次祭までのおかげを受けたお礼参拝をさせて頂いておるのです。
 お礼の心で一杯でなからなきゃいけんのである。まだ祭典中である。にもかかわらずそこでガヤガヤ、こちらでガヤガヤ言いよるのを聞いて、あいたー、気を改めなんいけんという話が出ました。私はそれこそ全然知りませんでした。子供達がガヤガヤ言うのはね、私は構わん、教会の御比例だと思う。けれどもね、参拝者の例えばみんながです、何か外の何の話が知らんけれどもぶつぶつガヤガヤ言うということは私共お祭りを支えとりますから一生懸命ですから、もうこちらが何を言いよるか全然分からん。聞こえもせん、分からんです。みんなが真剣にお祭りを頂きよんなさるとばかり思うておったらそうじゃない。
 そしたら信者さんの方ではもうガヤガヤいうならば神饌の時なんかはお供え物の品定めのようなお話しじゃなかろうか、何か外の話ではなかろうか。これではね、教会にお参りをしとってお祭りを頂きよって全然姿勢が出来てないことが分かるですね。合楽の方達は昔から行儀が良いというて通っとった。夏でも決して上着でも脱いでくる人は一人もいなかった。夏季信行なんかも必ず昔の人達は男は背広をびしっと着てくる。
 ね、けれどもそれが信心を頂こうとするものの姿勢なんです。そのくらいの心掛けがいるというのです。それになんぞやお祭り中にガヤガヤ話しているようなことではです、ね、お祭りを有り難く頂けるはずがない。せっかくお祭りを頂くならば何か有り難いものを頂いて帰らなければ出来ない。有り難いお礼を申させて頂いたら、そのお礼に対するお返しのようなものが必ずある。だからお祭りがいつも形式が同じだからじゃないでしょうかというお話しがございました。
 だから私も考えるところ、考えさせられました。まあだ私の一生懸命が足りんのだなと。私が祭主をお祭りを支えとるのに、信者の方で例えば何人かがいつもガヤガヤ言うてお話しをしよるといったようなことがあるということは、いうなら私の一生懸命がまだこちらの御広前の方へつながっていないのだと。という風に私も反省しましたけれども、信心をさせて頂く者、もう家に帰ってどころではない、ここでお祭り中に祭典中に姿勢をくずしてしもうておるということが言えるのじゃないでしょうかね。
 昨日最後に文男先生が発表しておりました。本当にいつ聞いても信心のいうならば苦しみといったようなものを頂いている人だなといつも思うんです。私が殿上ですね、いわゆるこのお月次祭の時にお装束をつけて、お祭りを奉仕させていただく御用に使わせて頂くようになってあの人いつも話します。私は無信心だから、せめて神様がね、お祭りの祭員でも使うて信心をちゃんとさせようという御心情じゃろうねと言うて松村先生と話しますとこういうのです。これはなぜかというとね、普通は無信心でありましてもお祭りの時だけはもうしら真剣になりますと言う、ですからお祭りの時にいうならば、前に風邪でもひくようなことがあってはならんとまず体を大事にします。お祭りに遅くなるようなことがあっちゃならんから、もうその時だけは時間を厳守して途中寄り道をするようなことは絶対いたしません。
 ね、いうならばおかげでね、しら真剣に神様に向かいますからお月次祭で私はおかげ頂いておる、かろうじて私の信心がです、まんねりにならんですむ。もし私共にお祭りがなかったらあの真剣さを持って神様に打ち向かわなかったら、もうしだごだになるのかもしれませんけれども、私共が無信心だから神様が祭員に使うてくださる。
 ですからお祭りの時だけはしら真剣、一生懸命で仕えます。一生懸命神様に向かうところにです、神様から頂く有り難いというものはもう生き生きとした有り難い、いわゆるいうならばまんねりになるどころか、ね、昨日の一時の御理解の時に頂きました、もうそれこそフレッシュな生き生きとした喜びが下からよみがえってくる。こればかりは私はお祭りを頂かせて頂きますから、おかげを頂いておるという話をいたしました。
 ね、だから皆さんでもそうです。それが本気で取り組まれる時です、真剣に取り組まれる時です、ね、神様と交流することができるのです。ね、参ってたずねるところがなかった。けれどもここでならば分からんところがありゃ質問すりゃあ親先生が神様に御神意を伺うて本当のことを教えて下さる。御理解を頂かして頂いても、あれはただの先生のお話しじゃない神様と先生が交流しておられて、そこから頂けるお話しであり、神様が確信してお話しを頂くならそれを頂いてかえってそれこそ行の上に現す生き方に真剣に取り組まなければならない。
 そこから信心して徳を受けて身しのぎをするようになれと、いわゆる身しのぎができるようになってくる。ね、お徳を受けて身しのぎをするようになれと。此方が祈るところ天地金乃神と一心なりといわゆる天地がいつも私のバックであり、天地が私のためにいつも働いて下さっておるということを実感できれる。夕方の畑に入って草を取るのに、蚊がブンブン言わんはずはないのだけれども、その蚊がかろうじてくわんですむようなおかげを頂いておるということはです、ね、いうならば天地と交流しておるからそういう奇跡と思われるようなおかげが頂けるのです。
 しかも舞台で務めておる時だけではない、お広前でお話しを頂いたり、御祈念をしておる時だけではないもう家に帰ったらもう元の自分にかえってしまっておるというようなことではなくて、ね、真、真の女形といいますね、本当の女形達が女形の俳優達がです、やはり舞台の上だけではなくて私生活でも女になりきろうと男だから、なりきろうと務めておかなければすぐ男の地が出てしまうというのである。
 お互い凡夫であるから、ね、一生懸命務めておらなければです、お広前と自分の家庭生活が違うたものになってくる。一生懸命務めていくうちにいつとはなしに自分のものになってしまう。ね、そこに身に徳を受けて身しのぎができるようなおかげにつながってくるわけでありますね、どうぞ。